おいでんさんそんセンターのセンター通信ブログ

澁澤寿一氏×センター長対談【H29年度くるま座ミーティング】

2018年02月21日


基調報告に引き続き、豊森なりわい塾塾長の澁澤寿一氏とセンター長の対談では、おいでん・さんそんセンターのこれまでの5年で見えてきたものは何なのか、これからの5年に取り組むべきことについて両者の想いが語られました。

辰吉センター長(以下、辰吉):センターを立ち上げ、見えてきた未来の実現に向けて5年やってきました。これからの5年何をやっていくのかというヒントをこの対談で得たいと思います。
 澁澤さんは全国の地域づくりをいろいろ見ておられます。全国から見てセンターの取り組みの方向性はどうなのかを、まずお聞かせください。

豊田に関わった経緯

澁澤寿一氏(以下、澁澤):私が豊田と関わるようになったいきさつから話したいと思います。
最初に私が豊田にお邪魔したのは20年近く前でした。丹羽健司さんという森の健康診断をやっている方が主催するシンポジウムに呼ばれて初めて豊田に来て、足助の小澤庄一さんという名物おじさんと対談させられたのが最初でした。小澤さんは、何回も宮本常一さんという民俗学者を呼んでシンポジウムをやっておられた。そのきっかけとなったのが「名倉談義」という名倉地域の村の人間関係を含めた美しさを書いている本です。小沢さんは名倉のような美しさをもう一度再現したいということで、三州足助屋敷を作ったそうです。三州足助屋敷を作って豊田市の中山間地域を全部名倉地域として、その生活をよそから来た人に見せていくというようなものにしたかったのに、テーマパークになってしまった。それでは一般の人たちの価値観に広げていけないということをおっしゃっていたのをよく覚えています。
 「何とかおれの目の黒いうちに、田舎の良さをみんなが考えるような社会にするために手をかしてくれよ」という話になって、それから豊田に通うようになりました。

都市と山村をワンセットに捉えた異色の取り組み



澁澤:おいでん・さんそんセンターのような組織が外からどう見えるか。全国の自治体のほとんどすべてが移住対策だとか、観光の対策とかで何とか人を引き込もうということでやっきになって色々なお金、行政施策をつぎ込んでやっています。だけどセンターみたいな機能は全国どこにもないと思う。もっと小さい自治体、1000人とか3000人くらいの自治体の、とっても変わった人が、「ひとりおいでん・さんそんセンター」みたいなことをやっていることはあるかもしれません。保育料をただにするとか税金を安くするという経済的支援で外から人を呼び込もうという動きもありますが、おいでん・さんそんセンターは経済的支援などではなくて、やろうとしている。   
 豊田市には、トヨタ自動車があって、かつてはお金が潤沢にあった。ありとあらゆる山村振興施策をやってきたし、補助だとか交付金など色んな形でお金も出してきた。それでは中山間地の疲弊を止めることができなかった。視点を変えて都市と農山村をワンセットに捉える、お互いが対等な持ちつ持たれつの関係を作るにはどうしたらよいかということで考えられたのがセンターだと思う。
人が中山間地に住むというのは結果です。都市のなかに過疎地域が出てきたり、トヨタ自動車が電気自動車に移行したときに雇用はどうなるんだろうとか、決して都市も問題を含んでいないわけではなくて、むしろ都市のほうに、はるかに深刻な問題がある。中山間地には食糧と水、エネルギーを自給することができるけれど、都市は全くそれらを自給できない。経済で生きるしかない。経済成長戦略が描けなかったら、都市は破滅するしかないという恐怖感におののいていないといけない。
 それなら競争世界や、勝ち組負け組を作らないで生きていく。都市と田舎が持ちつ持たれつの関係のなかで、内部循環経済を大きくしていって、なおかつトヨタ自動車という外部からお金を持ってくる機能も成り立たせる。その中で、人が経済ではなくて、幸せを自然のなかや人間関係のなかで作って生きることを実現する。そのために、推進役の人と、それを支えるプラットホームが必要だと、最初の3年間は豊田市という行政機関としておいでん・さんそんセンターを立ち上げました。これまで民間で活動してきた人たちがそこに加わる形で進めてきて、今それが一般社団法人として民間になったという移り変わりをしています。
 移住定住だとか、中山間地振興で作られた施策は他にもありますけれど、都市、農山村を全く違う視点でとらえて、これから運命共同体で生きていくのにどうしたら環境を作れるかということをやっているのはおいでん・さんそんセンターだけだと思います。どんな形でできたらいいのかは全く分からなかったし、最初のころは鈴木辰吉さんの頭のなかにもイメージが浮かばなかったと思うんです。落ち着いたところが半官半民みたいな組織ですよね。官がまったく絡んでないわけじゃない。だけど民間が基本的に主体になっていく。
 鈴木さんは長年豊田市の行政の中核で色んな行政施策をして、中山間地振興をやってこられました。なぜおいでん・さんそんセンターについて、「これでいけるんじゃないか」という実感を持つようになったのか。この5年間どういうふうに思ってきたのかをお聞かせください。

山村を諦めることは、日本を諦めること



辰吉:私は市役所の産業部に30年間いました。経済成長の最中、「勝つために何をするか」、ということを商業者や企業など産業に関わる皆さんにずっと言いながらやってきたのが、今「移住だよ」と言っている。今、「産業は必要だけど二の次だよ」と言っている。なぜそうなったのか。私が山に暮らしていて実際に周りの状況を肌で感じ、このままでは中山間地域は続かないという危機感がありました。仕事の忙しさにかまけて見ないようにしていたのですが、定年間際の頃に、澁澤さんをはじめ色んな人が押しかけるようにしょっちゅう来て、「都市と農山村をつなぐ、そういった機関を作りませんか」ということを熱っぽく語られた。最初は「何を言っているんだこの人たちは」と思っていました。周りの状況、定年退職も大きく作用して「第二の人生はこれにかけよう」と思いながら、正直半信半疑でした。
 引き金になったのは2012年の10月に新城市で開催された全国過疎問題シンポジウムの山崎亮さんの基調講演でした。「今ここにおられる山村地域の皆さんがあなたの地域を諦めるということは、高齢化に覆い尽くされること、この日本を諦めることですよ」と述べられました。それで澁澤さんたちの言っていることが、腑に落ちたんです。「豊田市でなら何かできるかもしれない」、そういうふうに考えて、市の関係者と相談しながら、おいでん・さんそんセンターという中間支援機関を作ることになりました。

澁澤:今日はおそらく、他の地域の行政の方も来られていて、移住定住とか農山村の過疎化を大きな問題として捉えていると思います。辰吉さんは、行政にいた際にいろんな施策をされてきて、地域のためにお金も使ったし、人も手間もかけてやってきた。行政だけでは進まなかったことが今のおいでん・さんそんセンターで進んでいる。1歩先へ踏み出せるところまで来たということについてどんなふうにお考えですか?

民間が自ら決めて、自ら動く

辰吉:私が「引きずり出された」というのはあながち違っていない。そして「引きずり出した人」というのは、現在も本当に真剣に取り組んでいただいたいます。プラットホーム会議というおいでん・さんそんセンターの運営を司る会議に出席いただいていて、全てはそこ決まっています。行政からは細かい仕様書はありません。「田舎暮らし総合窓口を運営して、一定の成果を上げなさい」、「都市と農村をつなぐマッチングを年間30件くらいやりなさい」ということは言われます。やり方などについてはあまり指示がなく、任せられている中で、私を引きずり出した人たち、その人たちに関係する色んな活動団体の人たちが今おいでん・さんそんセンターを支えてくれています。
 これまで行政だけが旗を振って上手くいかなかったことが、おいでん・さんそんセンターになったら動き出したということが随分たくさんあります。NPO、研究者、住民の代表の方などがやろうと自ら決めて動いている。それが最大の要因だと思います。この5年でネットワークが地域を越え、愛知・岐阜・長野までどんどん広がっています。



澁澤:私たちから見て、行政がお金と施策を出してくると住民にとってはどうしても『受け』になります。最初は来ていたお金が段々少なくなると、どうしても行政にぶらさがってもっとお金をくれという話になるし、段々行政にやらされている感が出てきてしまう。やらされている感が出てきた瞬間に、お役に感じて、「俺は1年我慢したんだから次お前やれよ」みたいな嫌な感じになってくる。自治は全く育たず、ただやらされて上からお金が落ちてくる形になる。
 おいでん・さんそんセンターは民間の側から作ろうと持ち掛けたこともあり、地域住民、NPOの人たち、色んな団体の人々も出てきて、課題意識を持った人たちが話し合いながら、官だけではなくて、民が主導で地域を作っていった。それが今までありそうでなかった形態だと見ていますが、どうでしょう。

自治の先駆者たちがいた

辰吉:おいでん・さんそんセンターができたから、自治が動きはじめたというところも無くはありませんが、いま先頭を走っているところは、以前からそういう動きがあったように思います。
 例えば足助の冷田自治区。ここは合併する前から移住に注目をして活動を進めておられました。新盛自治区の新盛里山交流塾は、合併直後ぐらいに立ち上がりました。定年退職して村に戻ってきたら周りが荒れ放題になっていた。これでは、「おまえの財産だぞと言って次に渡せない」と、元気のいいおじいさんたちが裏山をきれいにし始めたら、これがしんどくて仕方がない。「都市の連中をだまくらかして、上手に使って片づけさせよう」とやり始めたら、それが楽しくて交流塾の活動につながった。自治を意識していたかはわかりませんが、そこにはキーマンがいて「このままではいけない、自分たちで何とかしよう」と動き出しています。この例のように自治のモデルになる地域が4~5つあります。おいでん・さんそんセンターは山村地域の色んな地区に出掛けていって、出前講座のなかで、それらの事例をお手本として見せています。

澁澤:先駆的にやっていた地域は、10年やっていくと、みんな10歳年をとるんですよ。どんな先進的な地域で何人かでやっていても、次の世代にバトンを受け渡していくことを考えないと、その人たちの世代だけで終わってしまう。ところが後ろを振りかえってみると自分たちの次の代は地域に根付いていなくて、どうやってバトンを渡していいかわからないということが全国的にどこでも起きていると思うんです。それを支えて、バトンを引き継いでくれる人たちをつないでくれるというおいでん・さんそんセンターの役割がとても大きいと感じています。



地域をつなぐ人材育成

辰吉:先ほどの基調報告でも話しましたが、残ってきた地域、そうでない地域がまだら模様で存在している。残ってきたところには、必ずリーダーがいてけん引をしているということが見えてきました。だからこれからは人材育成がとても重要になると申し上げました。センターが手掛けてきたのは、「ミライの職業訓練校」。これは地域リーダーを育てるとかそういうことではなくて、都市部に暮らしながら生活をしているけれど、このままでいいだろうかともやもやしている人たちが、生き方をお互いの関わりの中で見つけ合う。例えば、それが農村で起業することにつながればそのひとが地域のリーダーになっていくかもしれないということも想定しながら、人材育成の一部として3年間やってまいりましたし、今後も続けていこうと思っています。

 豊森なりわい塾の塾長を澁澤さんがやって9年。センターのスタッフのうち3人は豊森の卒塾生ですし、卒塾生は様々なところで活躍されていて、地域のリーダーになっている方もいます。間もなく10年を向かえようとしている豊森なりわい塾を率いてきて、どういう展望が見えたのか、これからをどのように考えているのか、お話しいただければと思います。

豊森なりわい塾の次のステップ

澁澤:豊森なりわい塾を簡単に説明します。今から9年前、リーマンショックの年です。トヨタ自動車は社会貢献推進事業として、それまでトヨタの森を中心にした自然観察などの環境教育を進めてきた。これから環境を考えるときに、環境問題に詳しい人を育てるよりも、地域でちゃんと地に足がついて働ける人、そこで暮らしを作る人を育てていかないと、環境問題が社会問題として解決していかないんじゃないかという意識を、その年にトヨタ自動車が持った。やってみましょうということで、私たちが参加しているNPOと豊田市が一緒になってスタートしたのが豊森なりわい塾でした。
 わずか9年前ですが、田舎は働くところがないから過疎になるという漠然とした想いをもったスタッフが圧倒的に多かった。「田舎でもスモールビジネスをたくさん作っていけば食っていける」という風に、ビジネスの世界のなかで地域を考えていたんです。リーマンショックの後、豊森がはじまって、3.11の震災がありました。リーマンショックで経済をゆさぶられ、地球をゆさぶられ、社会をゆさぶられ、段々考えが変わってきた。経済をどう作るのかというのは結果の問題。生き方を選択するというのは、「あの企業よりこっちのほうが時給が高いから選択する」ということではなくて、自分自身と向き合って、「自分はどういうことが幸せなんだろうか」と自分自身とちゃんと向き合うという形じゃないといけない。例えば、いろんなところでやっている田舎ぐらしフェアでは、田舎をパラダイスみたいに都市住民に紹介している。「それは本当?!」というふうに思うわけです。
 田舎に来たっていろんな嫌な問題はたくさんある。その時に都市と田舎を比較するのではなくて、自分自身のなかで自分の価値観をちゃんと作っていく。田舎には自然もあって農地もあるし、作ろうと思えば肉体を活かして、自分の暮らしが作れる。自分の食べ物を自分で作ることができる。ある場所で自分の生き方をちゃんと見直すというのが豊森なりわい塾の目的なんだということに、私たちもだんだん気づいてきました。
 僕や辰吉さんみたいに60代になると地域づくりの一番の近道は人材育成だということに何となく気付いてくる。人が地域をつないでいくことのすごく重要なファクターだとわかって9年間続けてきました。来年度で一区切りです。その後は、おいでん・さんそんセンターが引き継いで、豊森なりわい塾と同じ趣旨で続けていける人材育成機能を中間支援機関のなかに作ることが、施策をどうやって進めていくかというのと同じくらい重要だと思っています。

 人を育てながら前に向かって進んでいく。ちょうどこれからの時代は価値観も急激に変わっていて、去年の3月には大改革した教育要綱が公示されました。これだけ覚えていれば社会で最低限通用するという知識を教えていくことが義務教育であったのが、もう社会がどう変わるのかわからない。これから10年で現存する仕事の47%はAIなどにとって代わられて消えていく。そういう中で「働く」ということの質がまるで変わってくる。自分で何をどういうふうに学んで、どう社会に役立てるかを自分で考えられるかを対話や人間関係のなかで見つけていけるような子を育てるサポートが義務教育であると変わりました。これぐらい社会全体が大きく変わってくるときに、多分おいでん・さんそんセンターや、その中の機能としての人材育成セクションは、21世紀の後半に向かっている私たちの重要な財産の一つだと思います。時代が移り変わって経済が停滞したときに、経済を指標としない生き方を見つけていくおいでん・さんそんセンターのような機能がますます重要になると思っています。

 最後にこれから先の5年間に向かってどんな風に進もうとしているのか辰吉さんにお聞きしたいと思います。

おいでん・さんそんセンターのこれから



辰吉:これまでの5年は本当に手探りでしたが、どういう社会を作っていくかという方向性はぶれていなかったと思います。この5年間は、「どんな相談も断らない」ことを鉄則に全部受けてきました。これはすぐにパンクしてしまうなと思っていましたが、何一つ断ることなく全部こなして来ました。それは何でかと考えると、先ほど澁澤さんが言われた「ひとりおいでん・さんそんセンター」みたいなのが、周りにいっぱいできていたんです。「このことがあったら、このひとにつなげばいい」というのがどんどん広がってきたんですね。これはひとつの有り様として良いと思っています。これからの5年は、受け身ではなく、能動的に課題に向かって、センターの側から取り組んでいきたいと思っています。

 築羽小学校という旭地区の廃校で、「つくラッセル」という拠点施設が、総務省のふるさとテレワーク推進事業の補助金ももらって、始まっています。人材を育てる拠点、スモールビジネスがまきおこる拠点、福祉の拠点、ものづくりの拠点など、多様な機能を持った場所です。ここを一般社団法人おいでん・さんそんも、コンソーシアムに加わって一緒に運営していこうと思っています。つくラッセルのような拠点と連携を取って前に進む取り組みを行っていきたいというのが1つ目、2つ目は、先ほども話題に出ました人材育成。それから3つ目は、この5年間の様々な学びを日本中に横展開していくことです。4つ目として「集落のたたみ方」ということで、これは即座に研究に入りたいと思います。



澁澤:今日お見えの方々、行政の方々も是非おいでん・さんそんセンターに一度お越しいただければ、同じ目線で色んなことをお話しできるのかなと思っています。月1回はプラットホーム会議も開かれます。結構熱の入った議論が交わされています。そんな様子も見ていただければ、なんとなく温度を感じていただけると思います。
 いま鈴木センター長からお話しがあったように、自分たちの集落を残すか残さないかは行政が決めるのではなくて、自分たちで決めることです。決めないといけない場面に、必ずこの数年のうちに直面をします。そんな中で、少しでも多くの方にこの活動に参加していただいて、仲間として、中間支援組織あるいは中山間地、あるいは都市と農村の関わりを作っていけるようにしていきたいなと思っています。今日いらした方はもう私たちの仲間だと思っています。どうぞよろしくお願いします。

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