9月13日(水)に行った一般社団法人おいでん・さんそん法人化記念シンポジウムの基調講演で哲学者の内山節さんにお話いただきました。
今の時代が「個人で生きる社会」から「共に生きる社会」への移行期であること、また地域社会の中で役割を持ちながら皆で地域を作っていくというローカリズムは、フランス・イタリアでも顕著に現れている。アメリカやイギリスでは持続する会社になるために「従業員共同収入事業体」という企業形態が増えていることを具体例を挙げてお話くださいました。これからは、日本のそれぞれの地域が特徴を持った地域の作り方について、住民主導で方向性を見つけていくことが重要で豊田市も例外ではないと言われていました。
この大変濃い講演内容、ぜひ多くの方に知っていただきたいと、内山さんに相談しましたところ、特別の許可をいただき、全文書き起こし&公開させていただけることになりました。
16ページの長編となりましたので、冒頭の部分のみ掲載し、続きを読まれる方については一番下にあるpdfを開いてくださいますようお願いします。
内山節さん基調講演内容
50年近く前に、群馬県の上野村を通過した。とってもいい感じがする村だった。それ以降しばしば滞在するようになりました。そのうち住むのもいいかなあと思ったが、仕事の都合もあり1年じゅう住むわけにはいかない。村にいたり東京にいたりという生活を続けています。上野村は、8月のお盆の頃になると日航機が墜落したというニュースが出てくる。その村です。上野村と比べると足助が都市に見えるくらい、山奥です。村の中に水田が一枚もないというそういう村。かつては養蚕が中心でそれなりにやっていた村。村の96%が森林。
明治になって上野村ができてから、一度も合併したことがない。現在の人口が1256人くらい。上野村ができた時は1000人くらい。今の人口で多いか少ないのかよくわからない。1256人といっても260何人かは、Iターンの人ということになる。人口の2割以上はIターン。村の人間はIターンという言葉は使わない。というのは、元から地域社会には外から入ってくる人がたくさんいた。例えば、お嫁さんはどこからきたのか。村の中からお嫁さんが来たというケースもあるが、結構村外から来てますし、かつては養子という形で外から男の人が入ってくることもたくさんありました。だからIターンは新しい現象ではなくて、昔から外から人が入ってきて、時にはお嫁さんだったり養子さんだったり。昔は行商やなんかで村に来て住みつく人もいました。地域社会というのはそうやってできていくもんで、今日Iターンとわざわざ言うのも変な話で、村のなかでは使わない言葉ではあります。ただうちの村でIターンの人がかなり多いのは確かで、農山村という場所は、安心はできないんだけれど、比較的よそからは持続性のある村というふうに思われている。高齢化率は38%くらいあるけど、比較的若いひともいて、だいたい1200人くらいの村だと、新生児は1人か2人しか生まれないのが、うちの村はだいたい10人くらい。群馬県の市町村の中では、別に結婚しなければいけないわけではないんだけれども、婚姻率も1位。出生率も2.2ある。群馬県内で1位。どっちかというと比較的なんとかなりそうな村と思われている。もちろん今の状況ですから、何といっていてもたちまち窮地に陥るというようなこともありますけど。
もうひとつ自慢話的に言うと、1年半くらい前に、中学生の意識調査を教育委員会がやって、その質問項目のなかに、「将来どこで暮らしたいか」というのがあった。関東の村ですから、東京が相当いるだろうなと。群馬県内にしても、高崎とか前橋とか、さらに今日の状況ですから、少数派としてはニューヨークとか、そういうことを言う子も若干いそうだと思っていたところ、アンケート結果を見たら100%上野村と答えて、僕らの方が「え!ひとりも出て行かないの?」とそんな感じ。あてにはならないと思っていますけど、今のうちの村はそんな感じがあって、経済的には決して豊かではない。貧乏な村といっても構わないと思うんですけど、村の雰囲気としては、ここが暮らすのに一番いい村、そんな雰囲気が村中に広がっていることもあります。
50年近く前に上野村に出会ったときと比べると、いろんなことが変わってきている感じがする。当時は、山村は「暗い社会」というイメージが強かったし、封建的なものが残っているみたいな言われ方をすることがよくあった。今日は、山村は「色んな歴史や人間たちの知恵や技や色んなものが残っていて、むしろ結構おもしろそうな場所」というふうに見る人が多くなってきた。村のほうも随分変わってきて、僕の村でいうと2割強がIターンのひとたちということになる。比較的早くからそういう人たちが入ってきたところ。そういう地域としては、そろそろIターン的なひとたちの勧誘の仕方も考えていかないといけないかなと、そういう時代にちょっと入ってきているかんじもある。うちの村ですと1980年くらいからIターンという形で入ってくるひとたちがいたんですけど、当時は村に引っ越してくることはハードルが高かった。例えば上野村に引っ越したいなんて言ったって、周りのひとは皆反対する。そういうなかで押し切ってこないといけない。そうすると色んなことを考えて、色んなことを決意してというかんじで入ってきたんですけど、最近のひとは、「田舎暮らし」ということがごく普通の現象になってきた。そのために結構ハードルが低い形で入ってくるかんじに移ってきた。逆にうちの村は、最近入ってきたひとがまた村外に出ていくというケースがちょっと増えてきたというかんじ。昔入ってきたひとは、しっかり残っていて、つまりハードルが低くなってきているもんだから、ふらっと気軽に来て、来てみたら自分の予想と違うことがある、そうすると気軽に出て行っちゃう。それから、もっと条件のいいところを探して就職活動のように引っ越してしまうひととかというのが若干発生している。Iターンのひとたちからも「Iターン政策をそろそろ考えなおすべきだ」という意見が出てきている。村に来て何がしたいのか、というので入ってきてくれないと「田舎暮らしがしたい」という人はもういいんじゃないかということを、うちの村でも言っているし、よその村でも出始めている。一番すごいなぁと思うのは、徳島県の神山町とか、島根県でもありますけど、そういう一部地域では、Iターンで来たいという人に対して「村に来て何がしたいのか、企画書を持ってきてくれ」。面接やったうえで「この人大丈夫」となると、「来てくれ」と。企画書があやふやで「田舎暮らし希望」のような人は、「結構です」というような地域がではじめている。雰囲気が変わってきているんで、地域社会の側も何か考えなければならないというふうになって来ている。
山村と、山村を取り巻く状況はそんなふうに、結構激しく変動しているという気がしていて。地域社会の在り方自身はそんなに変わっているわけではないんですけれど。山村をとりまく状況や、人々の山村への視点とか、それに対応したやり方をそろそろ考えなきゃいけないかという時代に来ています。
1.はじめに
―個人の競争をとおして豊かな社会をつくるという考え方は、何をもたらしたのか
近代社会というのは、個人が競争を通して、結果社会全体が豊かになっていくというモデルで動いていた。しかしそれが今になってみると本当だったんだろうかという疑問が出てきている現状。歴史をふりかえってみると、ヨーロッパにおいて近代社会が形成されてきたのは18世紀。その時期をみていくと、ひとつのことをめぐって結構大きな対立があった。人間たちは個人として自己を確立して、個人として働いて、個人としてがんばって、それを理想とする考えだった。でもそうではない考え方もたくさんあって、色んな意味で共に生きるという方法を考えるひとたちがいた。協同組合が生まれてきたり、初期の労働組合も共に生きるっていうことを考えながら組織を作っていった。
2.個人の社会に対する幻想はなぜ成立したのか
―ヨーロッパ近代形成期の「個人」と「協同」の対立
ヨーロッパの近代形成期は個人の社会を目指そうとする動きと、個人の社会になってはいけないという、むしろ人間たちはともに生きる世界を作らなきゃいけないという2つの考え方が対立しながら展開したというのがこの時期の動きだったという気がします。ただ、その後の歴史をみていくと、個人として生きていくということが色んな問題があったにも関わらず、問題が顕在化しなかったと言ってもいい。
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